イラン反欧米の歴史をまとめてみた

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どうも、ブッダ先生です。

最近はイラン情勢についてのニュースが多いですね。

今日は、そんなイランの反欧米の歴史を書いてみようと思います。

「イラン石油国有化」「CIAによる軍事クーデター」

イラン革命」「アメリカ大使館占拠事件」

このようなワードを聞いたことないですか?

歴史ネタを書く理由

それは、多くの会計士の先輩方はミクロの話はされるけど、

政治国際情勢などのマクロの話はされていないからです。

企業の財務分析とかされている会計士さんは多いですよね。

会計士の仕事していたらミクロの話は自然とできるようになるかなあと。

マクロの話ができれば一味違う会計士になれるのでは?

という理由で学生時代の記憶を掘り起こすとともにリサーチし直して、

記事にしたいと思います。

イランってどこ?

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人口:約8,000万人(世界17位)

面積:1,648,195㎢(世界17位)

国教:シーア派イスラーム

国家体制:イスラム共和制(宗教上のトップが最高権力を持つ)

首都:テヘラン

(メモ)

ユーラシアと西アジアの中心地であり、ホルムズ海峡に面するため、地政学的に重要な場所と言われている。世界有数の石油産地である。

戦後〜1950年代のイラン

ざっくり理解 

第二次世界大戦

イギリスとソ連による領土分割

国王パフレヴィーの「欧米路線」

ムハンマド・モサデク政権による「欧米政策」

米英は警戒強める

軍事クーデターでモサデク失脚

新欧米派パフレヴィーの独裁体制

戦後の親欧米路線

第二次世界大戦後、イランはイギリスソ連領土分割されます。

そして当時のイラン国王パフレヴィーは新欧米路線をとります。

国王は親欧米、モサデクは反欧米

国王パフレヴィーは新欧米路線をとるイランでしたが、

1951年に反欧米派ムハンマド・モサデクが首相に就任します。

当然ですが、考え方が異なる国王と首相は対立します。

モサデクによる石油国有化

当時、イランの石油はイギリスの独占状態だったのですが、

モサデク首相は石油国有化政策を進めます。

具体的には、アングロ・イラニアン石油会社(イギリスの会社)

の石油設備を国有化しました。

 

この政策は世界的に波紋を呼びました。

国際法違反だとイランを批判する人もいれば、

外資から搾取されるイラン民族を守る行動だと評価する人もいます。

 

何れにしても、イギリスやアメリカは激怒。

「勝手にイラン石油を買いにきた船はイギリス様が沈めるよ」

という状況だったので、ホルムズ海峡は超緊張状態でした。

 

ちなみに、

そんなピリついた情勢の中、イランから石油を買い付けるために

ホルムズ海峡にタンカーをぶち込んだのが・・・

海賊と呼ばれた男ですね。出光興産の創業者です。

海賊とよばれた男(上) (講談社文庫)

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アジャックス作戦でイラン親欧米化

激怒するイギリスはイランの政権転覆を計画します。

当初アメリカは静観していましたが、

①イランでの石油利権

ソ連の南側という地政学的理由

この2点の理由でイランの政権転覆を計画します。

 

そして、アイゼンハワー大統領の指示により、

アメリカのCIAとイギリスのMI6が実行したイラン政権転覆作戦が、

1953年の軍事クーデター(アジャックス作戦)です。

 

これによりモサデク首相は失脚します。

その結果、親欧米派の政権が誕生し、

国王:新欧米 政権:新欧米

となる結果、イランの親欧米路線が確立されたのです。

1960年代〜1979年イラン革命まで:西洋化への反発

イラン革命までの経緯をざっくり理解

1960年代〜パフレヴィー国王によるイランの西洋化

イスラム教徒反発

1970年代オイルショック後の原油価格安定でイラン経済不調

貧富の差拡大で国民反発

反体制運動の激化(パフレヴィー国王への反発)

1979年イラン革命

国王追放

イラン・イスラム共和国誕生(今のイラン)

国王パフレヴィーの「白色革命」

イランはソ連の南側に位置するという地政学的な理由から、

アメリカはイランは西洋化しておきたかったのです。

 

そんなアメリから多額の資金援助を受けたパフレヴィー国王は、

1963年から「白色革命」なる政策を進めます。

農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権識字率向上などです。

これ近代化政策なのですがやり方が強引で宗教勢力や保守勢力から反発されます。

秘密警察を使って反体制派弾圧するなどひどい独裁ぶりだったのです。

イスラム教勢力を弾圧

独裁パフレヴィーはイスラムシーア派精神的支柱である

ルーホッラー・ホメイニ国外追放します。

ホメイニー師はパリに亡命します。

1970年代イラン経済の不調

オイルショックによるオイルマネーで潤った中東諸国でしたが、

オイルショック、石油価格が安定するとイラン経済不調に陥りました。

その結果、貧富の差が拡大し国民の不満が高まります。

反体制運動の激化

①西洋化に対するイスラム教勢力の反発

②経済不調に対する国民の不満

このダブルパンチによってイラン政府に対する不満が高まり

反体制運動がどんどん激化していくことになります。

1979年イラン革命 

反体制運動激化の末、国内各地で反政府デモ暴動が起きるようになり

パフレヴィー国王は国外退去します。

そして、同時にイスラムシーア派の精神的支柱ホメイニー師が、

亡命先のパリからイランに戻り、

イラン・イスラム共和国初代最高指導者に就任します。

この王制打倒を指してイラン革命と言います。

アメリカ大使館人質事件

イラン情勢が激化する中起きたアメリカ大使館人質事件の概略は下記の通りです。

事件の経緯をざっくり理解

1979年10月パフレヴィー国王がアメリカに亡命

イランのアメリカ大使館で抗議デモ激化

1979年11月大使館占拠事件勃発

アメリカ国内でも反イランデモ起きる

1980年パフレヴィー国王死去

1981年アメリカのカーター大統領辞任

アメリカ大使館の人質解放

パフレヴィー国王のアメリカ亡命

イラン革命により国外逃亡したパフレヴィー国王は、

1979年10月「癌の治療」という名目で今まで後ろ盾だったアメリカに亡命します。

当時のアメリカ大統領ジミー・カーターは入国を認めます。

つまり身の危険を感じたパフレヴィー国王がアメリカに逃げた形になります。

 

この入国を認めたアメリカに対してイラン国民は激怒

アメリカ大使館での抗議デモが激化し占拠事件に発展します。

アメリカ大使館占拠事件

1979年11月、反対運動をしていた学生たちがアメリカ大使館を占拠します。

そして、アメリカ大使館の外交官、海兵隊、家族52人人質にとり、

パフレヴィー国王の身柄引き渡しを要求します。

実行したのは学生たちですが、占拠事件をコントロールしていたのは、

イランの革命政府の右派イラン革命防衛隊(イランの軍隊の一つ)

だとされています。

大使館からの救出作戦を描いた映画「アルゴ」

CIAによって実行されたアメリカ人救出作戦映画化されました。

アカデミー賞を受賞しています。 

アルゴ (字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 444日ぶりに人質解放

さて、1979年11月に起きたアメリカ大使館占拠事件ですが、

1980年7月 パフレヴィー国王の死去

1981年1月 米大統領選挙でカーター辞任

をもって人質が解放されます。

なんと444日も人質が拘束されたことになります。

この事件はイランとアメリカの関係を悪化させた事件として有名です。

まとめ

ブッダ先生、学生の頃中東の歴史について勉強したことがあったのですが・・・

最近イラン情勢のニュースを見て「イラン革命」ってなんだったっけな?

ということで調べて整理した内容を記事にしてみました。

企業の財務分析とかは得意だけど、政治や国際情勢の話になるとお地蔵さんになる会計士にはなりたくありません。

だからこれからも教養を高めるため国内外情勢やその歴史も勉強していこうと思います。

そしていつの日にか起こすぞ・・・

ブッダ革命」を!

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ではまた!